人間は特別な存在か-3

前々回前回で、人間は科学的には他の生物に比べて特別な存在ではなく、多様な生物の中の一つに過ぎないが、キリスト教では、他の生き物を「支配する」特別な存在とされているようだ、というお話をしました。

そうしたキリスト教の考え方に基づいて、人間が他の生き物や地球上の資源を好き勝手に使い、環境破壊をもたらした、という批判は古くからあります。有名なのは、歴史学者リン・ホワイトが1967年に発表した「現在の生態学的危機の歴史的根源(原題:"The Historical Roots of Our Ecological Crisis")」(1)という論文です。

ホワイトは、キリスト教においては人間は自然の単なる一部ではなく、神の像をかたどって作られ、他のすべての被造物は人間の利益のために作られており、キリスト教は世界でもっとも人間中心的な宗教である、と言います。科学技術は、人間は自然を超越しており自然に対する支配権をもつというキリスト教の教えの実現であり、それが抑制のきかない力を人間に与えたために、人間を取り巻く自然環境が破壊されたというのです。

ホワイトはまた、古代にあっては自然物はすべてーー木も泉も丘もーーそれ自身の守護神を持っており、人々は木を切ったり山を掘ったりする前に、その場所を守る神をなだめることが重要だったが、創造主である唯一の神以外の神を認めないキリスト教は、守護神に気を遣うことなく自然を搾取できるようになった、と指摘しています。

これらは妥当な批判だったと思います。「日本のような非キリスト教国でも環境破壊は深刻であり、科学技術による自然破壊の原因はキリスト教とは言えない」という反論もありますが、現代の科学技術は基本的に西洋で発展したものであり、キリスト教的な思想・価値観の上に打ち立てられたものです。キリスト教を信仰しない人や非キリスト教国であっても、西洋から科学技術が流れ込んでいる限り、その影響からは逃れられないと言えるでしょう。


キリスト教における「人間中心主義」をもっとも端的に表していると考えられるのは、前回も紹介した、聖書における創造物語です。

「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」 (創世記1章28節)

この「支配」という言葉を、どのように解釈するべきか。すべてを「支配」する人間は、他の被造物すべての上に君臨する、特別に優れた存在という意味なのか。この言葉の解釈が、人間と自然の関係を考えるための手がかりになります。

元の言葉は「ラーダー」というヘブライ語です。日本語の聖書では「支配する」(新共同訳、新改訳2017、岩波訳)「治める」(聖書協会共同訳、口語訳)などと訳されています。「支配する」よりは「治める」の方が穏当な感じがしますね。

ちなみに英語の聖書では "have dominion" (KJV, NRSV)、"rule over" (NIV)、"take charge of" (CEB)、"be responsible for" (MSG) など。"have dominion" や "rule over" は「支配する」のニュアンスに近く、"take charge of" は「管理する」、"be responsible for" は「責任を負う」という感じでしょうか。翻訳の際の解釈によって、訳語もだいぶ変わってきます。

聖書学者の月本昭男は、この「支配」という言葉を、「地上の秩序保持の責任が人間に課せられたということ」であると説明します(2)。神が創造した世界の秩序を保つことが、人間に与えられた責任である、ということです。

また、同じ創世記の中には、

 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2章15節)

という記述もあります。ここで「耕す」と訳されている動詞「アーバド」には、「仕える」という意味もあるそうです。とすると、人間は大地に仕え、守ることが要求されているということになります(3)。

こうしたことを見ていくと、自然を好き勝手に搾取したり破壊したり、ということは、聖書の教えからも間違っていると言えそうです。つまり、西洋で発展した科学技術によって人間が自然を破壊し、環境を悪化させたことには、ホワイトの言うようにキリスト教の影響があるけれども、それは本来あるべきキリスト教の姿ではない、ということのようです。


最初の問いであった「人間は特別な存在か」に戻ると、キリスト教においてはやはり人間は特別な存在です。でもそれは、他の被造物の上に立ち、思いのままに力を振るって支配する特別な存在、ということではなく、神に造られた世界のすべてに仕え、世界を守り、維持するという特別な役割を与えられた、ということになります。

前回書いたように、生物学的には人間は、共通の祖先から進化によって枝分かれしたたくさんの生き物の中の一つに過ぎず、何ら特別な存在ではありません。そのことが私にとっては、人間中心的に思えるキリスト教を長い間受け入れられなかった理由のひとつでした。一方で、人間は突出した知能を持ち、道具を使い、燃料によって他の生き物には使い得ない大きさのエネルギーを使って活動しています。自然を破壊する力を持ってしまったという意味では、特別な生き物と言わざるを得ません。

そして、キリスト教における人間は、世界に仕え、維持する責任を託された特別な存在である。その特別さは、私にも受け入れられそうに思えました。特別に過剰な力を持ってしまった人間は、その力を世界を守るために使うことを神によって求められる特別な存在でもある。しかし人間はその罪のゆえにその力を正しく使うことができなかった。人間は神のもとに立ち帰り、神の意思に沿うように力を使えるようにならなければならない。そう考えることで、私は科学者としての自分と、キリスト者としての自分に、折り合いをつけることができるようになったのでした。(了)

References:

(1) リン・ホワイト『機械と神』(みすず書房 1999年)所収
(2) 月本昭男『旧約聖書I 創世記』岩波書店 1997年
(3) 芦名定道・土井健司・辻学『改訂新版 現代を生きるキリスト教』教文館 2004年
※ 聖書は新共同訳(日本聖書協会)より引用しました。


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