はじめに-2(神学生になるまで)
研究者になってから、いくつかの大学や研究機関で働きました。その間に家の近所の教会に通うようになり、洗礼を受けて「クリスチャン」になりました。
それと前後して、「牧師になって教会で働きたい」という考えが浮かびました。それは自分でも突飛なことに思えました。研究者の仕事は気に入っていて、一生続けていくつもりでした。教会のことをよく知っているわけでもありません。それでも、牧師の仕事について調べたり人に相談したり、祈ったりする内に、段々と決意が固まっていきました。一年後、仕事を辞めて牧師養成機関である神学校に入学することにしました。
科学を仕事にしていたけれど牧師になるために神学校に入ったと話すと、教会の人たちからはしばしば「科学を突き詰めたら神様に行き着いたのですね」「やっぱり科学では解明できないことがありますからね」などと言われることがありました。科学ではわからないことがあるから神を求めたというのは、わかりやすくて座りのいい物語だと私も思うのですが、残念ながら違いました。私が信仰を持つようになったのは科学とは無関係な個人的な出来事によるものでしたし、科学に限界を感じて牧師を目指すようになったわけでもありませんでした。私は職業的科学者ではなくなりましたが、今も科学を愛しています。科学は世界を理解するために不可欠な道具であるという思いは変わりません。
一方、研究者仲間に仕事を辞めて牧師になると言うと、たいてい心配されました(確かに、同僚が宗教にハマって退職するというのは一般的に心配な状況でしょう)。「一時の気の迷いじゃないのか」「牧師になって食べていけるのか」「クリスチャンの研究者として生きていくのではいけないのか」など、個人的な生活について心配されたほか、もっとも頻繁に尋ねられたのは「進化論はどうするんだ」ということでした。
「進化論はどうするんだ」という質問は、もう少し詳しく言うと「キリスト教は進化論を否定しているのではないか、生物学者だったあなたがそこで生きていけるのか」ということでした。
確かにキリスト教の中には、生物の進化を否定する立場があります。一番極端なのは、聖書に書かれている通り、世界は全能の神によって6日間かけて創造されたと文字通りに理解する立場です。この立場では、世界の創造が起こったのは今から約6000年前(聖書の登場人物の年齢などから計算します)、神は1日目に光を、2日目に天を、3日目に地と海と植物を、4日目には天体、5日目に動物、そして6日目に人間を造ったということになります。この立場では、人間がそれ以外の動物から進化してできたものであるということを認めません。
こちらに書いたように、現代の生物学では人間を含めたいろいろな生き物は38億年前に生まれたひとつの生命を祖先として、長い進化の過程を経て出来上がったと考えられています。進化の結果として存在する生物を扱うには、たとえ進化を直接の研究対象としていなくても–––例えば目の前で生きている生き物や、生き物の体内で起こっている現象だけを扱うとしても–––進化を否定することはできません。
私が最初に所属していた教会は、進化について特定の考え方を主張するところではありませんでした。教会の中には、進化の考え方を普通に受け入れている人もいれば、進化を完全に否定して6日間で世界が造られたと信じている人もいました。「進化論だけでは全てを説明できない、進化に加えて神の関与があったはずだ」という人もいました。
その中で、私は「進化論を捨てろ」と要求されることもなく、進化を「信じている」(科学者の立場からすれば進化は信じるとか信じないとかいう問題ではないのですが)ことが問題になったりはしませんでした。ただ、教会の中には進化に抵抗を示す人もあり、その人たちと議論しようとは思わなかったので、極力その話題は避けるようにしていました。
現在は、別の教会に所属しています。今は、生物学のことも進化のことも、必要な時には気にせず話しています。話題にすることを避けていた頃、特に不自由は感じていないつもりでしたが、ある時期まで人生を賭けて取り組んできたことを自分で否定しているようで、やはり窮屈だったように思います。研究者時代の同僚たちの心配はもっともなことでした。「進化の光に照らすことがなければ、生物学のどんな知識も意味をなさない」("Nothing in biology makes sense except in the light of evolution.")という有名な言葉があります。ドブジャンスキーという二十世紀の遺伝学者の言葉です。進化を否定すれば、人間を含むどんな生き物についても説明できない。一度は生物学に身を捧げた者として、進化に無関心な振りをするべきではなかったと、今は思います。
それと前後して、「牧師になって教会で働きたい」という考えが浮かびました。それは自分でも突飛なことに思えました。研究者の仕事は気に入っていて、一生続けていくつもりでした。教会のことをよく知っているわけでもありません。それでも、牧師の仕事について調べたり人に相談したり、祈ったりする内に、段々と決意が固まっていきました。一年後、仕事を辞めて牧師養成機関である神学校に入学することにしました。
科学を仕事にしていたけれど牧師になるために神学校に入ったと話すと、教会の人たちからはしばしば「科学を突き詰めたら神様に行き着いたのですね」「やっぱり科学では解明できないことがありますからね」などと言われることがありました。科学ではわからないことがあるから神を求めたというのは、わかりやすくて座りのいい物語だと私も思うのですが、残念ながら違いました。私が信仰を持つようになったのは科学とは無関係な個人的な出来事によるものでしたし、科学に限界を感じて牧師を目指すようになったわけでもありませんでした。私は職業的科学者ではなくなりましたが、今も科学を愛しています。科学は世界を理解するために不可欠な道具であるという思いは変わりません。
一方、研究者仲間に仕事を辞めて牧師になると言うと、たいてい心配されました(確かに、同僚が宗教にハマって退職するというのは一般的に心配な状況でしょう)。「一時の気の迷いじゃないのか」「牧師になって食べていけるのか」「クリスチャンの研究者として生きていくのではいけないのか」など、個人的な生活について心配されたほか、もっとも頻繁に尋ねられたのは「進化論はどうするんだ」ということでした。
「進化論はどうするんだ」という質問は、もう少し詳しく言うと「キリスト教は進化論を否定しているのではないか、生物学者だったあなたがそこで生きていけるのか」ということでした。
確かにキリスト教の中には、生物の進化を否定する立場があります。一番極端なのは、聖書に書かれている通り、世界は全能の神によって6日間かけて創造されたと文字通りに理解する立場です。この立場では、世界の創造が起こったのは今から約6000年前(聖書の登場人物の年齢などから計算します)、神は1日目に光を、2日目に天を、3日目に地と海と植物を、4日目には天体、5日目に動物、そして6日目に人間を造ったということになります。この立場では、人間がそれ以外の動物から進化してできたものであるということを認めません。
こちらに書いたように、現代の生物学では人間を含めたいろいろな生き物は38億年前に生まれたひとつの生命を祖先として、長い進化の過程を経て出来上がったと考えられています。進化の結果として存在する生物を扱うには、たとえ進化を直接の研究対象としていなくても–––例えば目の前で生きている生き物や、生き物の体内で起こっている現象だけを扱うとしても–––進化を否定することはできません。
私が最初に所属していた教会は、進化について特定の考え方を主張するところではありませんでした。教会の中には、進化の考え方を普通に受け入れている人もいれば、進化を完全に否定して6日間で世界が造られたと信じている人もいました。「進化論だけでは全てを説明できない、進化に加えて神の関与があったはずだ」という人もいました。
その中で、私は「進化論を捨てろ」と要求されることもなく、進化を「信じている」(科学者の立場からすれば進化は信じるとか信じないとかいう問題ではないのですが)ことが問題になったりはしませんでした。ただ、教会の中には進化に抵抗を示す人もあり、その人たちと議論しようとは思わなかったので、極力その話題は避けるようにしていました。
現在は、別の教会に所属しています。今は、生物学のことも進化のことも、必要な時には気にせず話しています。話題にすることを避けていた頃、特に不自由は感じていないつもりでしたが、ある時期まで人生を賭けて取り組んできたことを自分で否定しているようで、やはり窮屈だったように思います。研究者時代の同僚たちの心配はもっともなことでした。「進化の光に照らすことがなければ、生物学のどんな知識も意味をなさない」("Nothing in biology makes sense except in the light of evolution.")という有名な言葉があります。ドブジャンスキーという二十世紀の遺伝学者の言葉です。進化を否定すれば、人間を含むどんな生き物についても説明できない。一度は生物学に身を捧げた者として、進化に無関心な振りをするべきではなかったと、今は思います。
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