人間は特別な存在か-2

 こちらでは、科学的には、人間は地球上に数多いる生物の中のひとつに過ぎず、決して特別な存在ではない、というお話をしました。

ではキリスト教では、人間はどのような存在でしょうか。

聖書の冒頭に置かれている『創世記』は、その名の通り、神が世界を創り出す物語から始まります。神がまず「光あれ」と言うと光が存在するようになり、次に空と海が造られ、植物、太陽、月、動物、海の生き物、地の獣・・・と順に造られた後に、いよいよ人間が造られます。神は言います。

「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(創世記1章26節)

そして造られた人間に、

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(同28節)

この物語においては、人間は他の生き物と比べて明らかに特別な存在であると言えるでしょう。何と言っても人間は神に似せて造られています。聖書の他の箇所では、人間は「神に僅かに劣るもの」(詩編8編6節)とも呼ばれています。そして人間は、他の生き物すべてを支配せよと神に命じられているのです。すべての生き物の支配者、人間!

個人的な話をすると、私は長い間キリスト教に心惹かれながらも、洗礼を受けてクリスチャンになる、ということには強い抵抗がありました。その理由が、この「人間は特別な存在」という価値観でした。それはとても傲慢な考え方に思えました。「支配者」となればなおさらです。

私はかつて、海の生き物の研究をしていました。その頃、研究対象である生物を採集するために、スキューバで海に潜ることがしばしばありました。ウェットスーツを着て、空気のタンクを背負って海に入ります。

海に潜ると不思議な気分になります。水を通して弱められ、揺らぎながら届く太陽光。肌に感じる水圧、意識しなければ呼吸できない圧迫感。耳にはゴロゴロという静かな音がまとわりついて、外界から遮断され取り残されたような孤独。

足ひれを動かしながら海底を見ると、地上とはまったく違う生き物の営みが広がっています。岩に張り付いてゆれる海藻、ほとんど動かない動物、ゆっくりと這うもの、時どき跳ねて見える何か、その間を魚が通ったり通らなかったり。いつも過ごしている地上とはあまりに違う光景に、うっすらと罪悪感を覚えます。入ることの許されない場所に土足で侵入したような。

海中では、タンクにつないだレギュレーターを咥えて呼吸をします。万一、レギュレーターに異常が生じて空気を吸えなくなったら、命に関わる事故になります。潜る前に入念に点検しますが、自分の力では生きていけない場所に技術を使って無理やり入り込むのだから、何かあったら命を落としても仕方がないと覚悟を決めます。そうして海に潜ると、自然に対する畏れと自分の存在のはかなさを感じ、いくらか謙虚な気持ちになります。人間が「特別」で他の生き物を「支配」するなんて、ただの思い上がりとしか思えなくなるのです。

人間は、他の生き物と同じく、地球に生きる生き物のひとつに過ぎないのに、たまたま突出した知能があったために、自分を特別な存在だと思い込んで支配的に振る舞い、他の生き物を好き勝手に利用する。そうした人間中心的なキリスト教的価値観が、環境破壊を引き起こしたのではないか。そんな議論を目にすることもありました。イエス・キリストは信じたいけれど、キリスト教徒になったらこんな身勝手な価値観も受け入れなければならないのなら、私には無理だ・・・そんなふうに考えていました。

ですがあれこれ勉強するうちに、キリスト教の世界でも、人間が他の生き物を「支配」するとはどういうことなのか、環境問題などとの関係で真剣に議論されていることを知るようになりました。人間が神に似せて造られた特別な存在である、ということも、必ずしも人間中心的な価値観というわけではないようだ、ということもわかってきました。聖書には、人間が世界の中心であるとは書いてありません。世界を本当に支配しているのは全能の神であり、人間は(いくら神に似ているとしても)神に造られた存在に過ぎないからです。神こそが世界の中心、というのが聖書が主張していることのようでした。

(つづく)





※ 聖書は新共同訳(日本聖書協会)より引用しました。

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