説教「隣人となる」(サムエル記上15章2-3節、ルカ福音書10章25-37節)

気づけば 前回の更新から2年半以上経ってしまいました。その間に神学校を卒業し、教会で働き始めました。ありがたいことに、教会外でお話しする機会も幾度かいただきました。

今回は、2024年11月に、ある大学の学生YMCAの集会で、礼拝説教としてお話しした内容を掲載します。

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聖書(いずれも新共同訳)

万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない(サムエル記上15章2-3節)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ福音書10章25-37節)


今日は、2つの聖書箇所、旧約と新約から1か所ずつ読んでいただきました。一つ目は旧約、サムエル記上に記された、大変攻撃的な言葉です。「アマレクを討ち、アマレクに属する者は一切、滅ぼし尽くせ」。

「アマレク」という言葉に、みなさん聞き覚えがあるでしょうか。昨年10月28日、イスラエルがガザへの攻撃を開始して3週間が経ったころ、イスラエルのネタニヤフ首相が演説の中で聖書を引用し、「アマレクがあなたたちに何をしたかを思い起こしなさい」と述べました。

アマレクとは、旧約においてイスラエル民族の敵として何度も言及されている部族の名前です。モーセの時代、エジプトを脱出したイスラエル民族は、神に与えられた約束の地であるカナン地方、すなわち現在のパレスチナに移住します。アマレクはその道のりを妨害し(出17:8以下)、そのために神はイスラエルの人々に対して、アマレクを滅ぼすようにと命じます。今日の箇所に記された言葉は特に激しく、アマレクに属する一切のものを滅ぼし尽くせと命じています。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも、すべてを打ち殺せ。

アマレクは、聖書においてのみ知られる部族ですが、ユダヤ人の歴史の中では、悪の象徴となり、ユダヤ人の敵を表すものとなりました。

ネタニヤフ首相の発言は、現代のパレスチナ人を、旧約におけるアマレクの人々に例えたものです。それは当然に、パレスチナ人を滅ぼし尽くせ、絶滅させよ、それが神の命令である、ということを意味します。ですから、この発言は国際社会から多くの批判を受けましたが、ネタニヤフ首相は意に介しませんでした。

それから一年が経ちました。まさかこの状況が、一年も続くとは思っていませんでした。早い時期から、これはガザに住む人々すべてを対象とした集団殺害、ジェノサイドであると言われ、まさにガザの人々を滅ぼし尽くそうとしているように見えます。明らかに非戦闘員である女性や子どもも容赦なく殺され、国連の支援物資を積んだトラックまでもが襲撃されています。ネタニヤフ首相をはじめとするイスラエルの指導者たちは、まさか、旧約に記された神の命令を忠実に実行しようとしているのでしょうか。

19世紀に始まるユダヤ人のパレスチナ地方への移住、第二次世界大戦後のイスラエル建国、それに伴う「ナクバ」と呼ばれる大惨事、いくつもの戦争、そしていま起こっている殺戮が、宗教的な動機で行われているというのは、適切な見方ではないでしょう。聖書において、確かにパレスチナ地方はイスラエル民族のために与えられた土地とされていますし、そこに住むためには他民族を排除することも推奨されています。しかし、現在の状況は、信仰に基づき、聖書の言葉に従うために侵略が行われているというわけではなく、人間的な欲望による侵略を正当化するために、聖書の言葉を利用していると理解する方が適切であると思います。実際、イスラエルの中でも、敬虔なユダヤ教徒である超正統派の人々が、ガザへの攻撃に抗議する様子も報じられました。

聖書というのは、やっかいな書物です。聖書は、少なくとも建前としては神の言葉であり、聖典です。私の所属する日本基督教団の信仰告白には、「聖書は・・・神のことばにして、信仰と生活との誤りなき規範」であるとあります。聖書に含まれる膨大なテキストに「誤りがない」と表明するのは、良くも悪くも大変なことです。

とは言え、実際に信仰を持つ人たちの聖書に対する態度はさまざまです。一方には、聖書はまったくの無謬、何一つ間違いはなく、一言一句、文字通りに信じるという立場があります。いわゆる原理主義的な立場、非常に保守的な立場です。もう一方には、聖書は古代の人間によって書かれた文書に過ぎず、他の古文書と同様に扱うべきだという立場があります。この立場を突き詰めると、神の存在すら否定する可能性もあります。この二つの立場を両極端として、その間にはグラデーションのようにいろいろな考え方があります。

私自身について言えば、おそらく真ん中より少し右側です。聖書は人間を通して書かれた神の言葉であり、そこに間違いがあるとは言いたくない、しかし、人間のフィルターがかかっている以上、文字通り受け取るには不適切な部分がある、そのように考えています。

特定の民族を滅ぼせ、という命令のように、とうてい受け入れ難い言葉、倫理に反するとしか思えない言葉が聖書の中にある時、それをどのように解釈するか。それは、より高次の、つまり、より優先順位の高い神の命令に照らして判断することになります。

聖書には、山ほどの神の命令が記されています。その中でもっとも大切なもの、それが、本日のもう一つの聖書箇所、新約、ルカによる福音書10章に記されたものです。27節をもう一度お読みいたします。

「彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」」

神を愛することと、隣人を愛すること。この二つが、数ある神の命令の中でもっとも大切なものであるとされています。それはキリスト教独自の思想というわけではなく、イエスが地上を生きた時代のユダヤ教で、すでに言われていることでした。別の言い方をすると、すべての神の命令を要約すると、神を愛することと隣人を愛することの二つになるということでもあります。すべての神の言葉は、この二つに行き着くのです。

イスラエル民族が、神に与えられた土地に住むために、その邪魔になる人々を滅ぼすこと。そのことは、神を愛し、隣人を愛することと矛盾しないのか。それは、誰を隣人とするかという問題とも関わってきます。

結論から申し上げれば、隣人を自分のように愛さねばならないのは、自分が神に造られたいのちであるのと同じように、隣人もまた、神に造られたいのちであるからです。神が造り、愛されているいのちだから、私たちもまた愛するのです。その意味で、隣人を愛することは神を愛することと同じことであるとも言えます。

そうであるならば当然に、信仰者が、他の民族を滅ぼすことなど許されるわけがないのです。

隣人とは、自分と同じように神に造られた人間のことであるとすれば、地上のすべての人間が隣人であるということになります。ですが、今生きているすべての人を隣人として、自分のように愛するなどということがいったい可能なのでしょうか。

今日の新約聖書の箇所は、「善きサマリア人」とも呼ばれる有名な物語です。ご存じの方も多いことと思います。ある律法の専門家、すなわち旧約聖書の専門家が、イエスを試そうとして「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」と尋ねます。イエスは、聖書に精通しているはずの彼に、「律法にはなんと書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか」と尋ね返します。彼は旧約聖書の言葉を引用し、「「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えました。

イエスは彼に、「神を愛すること、隣人を愛することを実行すれば永遠の命が得られる」と言います。すると彼は、「わたしの隣人とは誰ですか」と問いました。

そこでイエスが語ったのが、「善きサマリア人」の譬え話です。

舞台はエルサレムとエリコを結ぶ道、これは多くの人が通る、重要な街道です。そこに追い剥ぎに襲われ、半殺しにされた人が倒れていました。服も剥ぎ取られ、ほとんど裸です。見ただけでは、どこの誰だか分かりません。

そこを三人の人が、順番に通りかかります。一人目は祭司。エルサレム神殿で祭儀を行い、神に仕える宗教者です。二人目はレビ人。この人もまた、神殿で働く宗教者です。この二人は、倒れている人を見ると、避けるようにして道の向こう側を通り過ぎて行きました。

この二人が、道で倒れた人を顧みない、冷たく自己中心的な人たちだったのかと言えば、必ずしもそうとは言えません。倒れている人は、ぱっと見では生きているか死んでいるかわからず、確認するにはその人に呼びかけ、体に触れる必要がありました。

律法の規定で、死んだ人の体に触ると、一定期間、自分の身が汚れてしまいます。そうすると、その間は、神殿に入ることもできず、仕事ができなくなってしまいます。倒れている人を助けようとして触れ、もしその人がすでに死んでいたら、その後しばらく普通の生活ができないとなれば、面倒に巻き込まれたくない、後から来るほかの誰かに何とかしてほしいと思うのも、無理もないことではあります。

三人目は、旅をしていたサマリア人です。どうやら裕福な商人のようです。彼は、倒れている人を見て哀れに思い、近寄って傷を葡萄酒で洗い、油を塗り、包帯をしてロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。さらに翌日、宿屋の主人にお金を渡して世話を頼み、もっと費用が必要になったら、帰りに寄って支払うからと約束して出かけます。

この物語を話し終えたイエスは、律法の専門家に「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねます。彼はもちろん、「その人を助けた人です」と答えました。

当時、ユダヤ人とサマリア人とは、友好的な関係とは言えませんでした。サマリア地方はかつて、北イスラエル王国に含まれていましたが、紀元前8世紀、北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされました。そしてアッシリアは、サマリア地方に、ほかの地域から、異なる民族の人々を移住させ、様々な民族的背景を持つ人々が混ざり合ってサマリア人となりました。ユダヤ人はサマリア人を、異なる民族の血が混じり、神の恵みから外れた人々、穢れた人々と見なし、見下していました。

さらに、当時のユダヤ教徒にとって、「隣人」とは、ユダヤ人の同胞のことでした。自分と同じ信仰をもつ共同体の仲間が隣人でした。自分とは違う神を信じる異教徒、他の民族は、隣人ではありませんでした。ですから、彼がこのサマリア人を指して「その人が隣人です」と答えるのは簡単なことではなく、相当の葛藤があったはずです。

それでも彼は、イエスの語った物語を理解し、三人目のサマリア人、自分たちから見れば穢れた異教徒こそが、倒れていた人にとっては隣人となったことを認めざるを得なかったのです。

ここで重要なのは、律法の専門家が「自分の隣人は誰なのか」ということを問題にしているのに対し、イエスが示したのは「隣人となったのは誰か」だったことです。つまり「隣人」とは客観的に定義される存在ではなく、自分自身の主体的な行動の問題であるということです。隣人は、「隣にいる人」として知らないうちにそこにいるのではなく、私たちが誰かのために行動することによって、その人の隣人になるのです。

33節に、このサマリア人は、倒れている人を見て「憐れに思い」とあります。「憐れに思う」と訳されるこの動詞は、もとのギリシャ語では「内臓」を意味する言葉を語源としています。内臓がきゅっと引き絞られるように感じ、とても冷静ではいられない。そのような語感です。この部分を、「憐れに思い」ではなく「はらわたを突き動かされ」とする翻訳があります。半殺しの状態で打ち捨てられた人を見て、体の内部が突き動かされ、いてもたってもいられなくなる。思わず駆け寄り、その人が生きているかを確認し、自分にできるだけのことをしたのが、このサマリア人でした。

祭司やレビ人も、倒れている人を見て心動かされていたかもしれません。そのままにしておくのが平気ではないからこそ、わざわざ道の向こう側を通って見て見ぬふりをしたのだとも言えます。しかし、その人を助けることはしなかった。その人に対して行動することをしなかった。その人の隣人となることはありませんでした。

誰かの隣人となるのは、簡単なことではありません。祭司やレビ人が、自分の体が穢れて仕事に支障が出るようなことは避けようとしたのも、理解できることです。

サマリア人にしても、倒れている人を助けるのは、大きなリスクのある行動だと言えます。倒れている人を介抱している最中に死んでしまったら、自分が殺したと疑われるかもしれません。また、宿屋にこの人を預け、「費用がかさんだら帰りに払う」と約束していますが、宿屋の主人に法外な金額を吹っかけられ、有り金全部まきあげられることもあり得ます。旅の途中で見知らぬ人の人生に巻き込まれると言うのは、大変なことです。

苦しむ人の隣人となるためは、リスクを負い、何らかの痛みを引き受ける覚悟が必要であると言えます。しかしそれこそが、イエス・キリストが要求しておられることなのです。

私は昨年9月、イスラエルを訪れました。エルサレムを中心に2週間ほど滞在して、新約聖書に書かれたイエスの足跡をたどる、というプログラムに参加しました。

日本に帰ってきて3週間後、ハマスのイスラエル襲撃をきっかけとし、イスラエルによるガザへの空爆が始まりました。周囲の人たちに、「イスラエルには、いいタイミングで行きましたね。今だったらもう行けませんね」と言われることがありました。その言葉に私は大変戸惑いました。確かに、いくらか平和な時にイスラエルを訪れ、無事帰ってきましたが、それをラッキーだと喜ぶことは、とてもできませんでした。

現地で出会った人がいました。ガザを訪れる機会はありませんでしたが、ヨルダン川西岸地区では、パレスチナ人のキリスト者に出会い、共にアラビア語と英語で献げられる礼拝に出席しました。難民キャンプでたくましく生活するパレスチナ人にも会いました。ガザや西岸地区の人々のための医療機関や教育機関で働く人たちにも会いました。イスラエルとパレスチナの融和のために尽力する人たちの姿を見ました。出会った人たちの顔が次々に浮かびます。あの人たちはいま、どんな思いでいるのだろう。

テレビで、あるいはSNSで、爆撃されるガザの映像を見つめながら、私はあの場にいたかったと思いました。数週間前に出会った人たちのそばで、隣人として、その痛みや苦しみを分かち持ち、自分にできることをしたかった。そう思いました。遠く離れた日本でできることは、本当に限られています。

もちろん、できることがないわけではありません。日本にいたら、パレスチナの人たちの隣人になることができない、などというつもりはありません。ですが、私は、隣人になることも、ならないこともできるのです。パレスチナの人々に思いを寄せ、祈り、自分にできる行動をすることもありますが、自分の都合を優先し、パレスチナのことを忘れて楽しい時間を過ごすこともあります。虐げられた人々の苦しみについて、考えたくなければ考えなくて済むという、自分の傍観者的立場に、いつも苛立ちを覚えます。

私は、パレスチナの人たちに対して、内臓を突き動かされるサマリア人になりたいと願います。しかし、道の向こう側を通り過ぎる祭司にも、レビ人にもなりえますし、実際、そうなることも多いのです。

私たちは、苦しむ人の隣人となることも、ならないことも、選択できます。それは、特権をもっているということでもあります。苦しむ隣人のそばにいても、自分が苦しくなれば、その人から離れることができるのです。

私たちは、他人の苦しみに思いを寄せることはできる。その苦しみを分かち合いたいとも願う。しかし本当にその苦しみに分かち合うのは、難しいことです。だれかが感じている痛みを想像することはできても、同じように痛みを感じることはできません。

隣人を愛し、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、苦しむ人の痛みを分かち持つ、そのことが完全にできるのは、イエス・キリストただおひとりなのだろうと思います。

もしかすると、私たちには、本当の意味でだれかの隣人になることは、不可能なのかもしれません。しかし、そのことに開き直ってはならないと思うのです。不完全な存在である私たちは、誰かの隣人となろうとしても、中途半端な形でしかなれないかもしれません。ですがそれでも諦めることなく、隣人となる努力をし続けたいと願います。なぜなら私たちにできないことは、神がしてくださるからです。私たちに足りないものは、神が補って下さると信じています。

神はどこにいるのかと問いたくなるような、戦争の続く暗闇であっても、そこにある光を、希望を見いだしたいと思うのです。いつか必ず、この世界に平和が実現する。神が、平和を実現してくださる。その希望をもち続けましょう。遠く離れた場所であっても、苦しむ人の隣人となり、できるかぎりの行動を続けて参りましょう。


オリーブ山から見たエルサレム旧市街


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