聖書の写本と生物の進化−1

 神学校では、聖書について深く学びます。聖書はキリスト教が信仰のよりどころとする書物ですし、毎週日曜日に教会で行われる礼拝では聖書を読み、牧師がその日に読んだ聖書についてお話をします。ですから牧師になる人は、聖書について、また聖書の読み方についてよく知っている必要があるのです。

聖書は、イエス・キリスト以後に書かれた27の文書を集めた「新約」と、イエス・キリスト以前に書かれた39の文書を集めた「旧約」に分かれます。全部で66の文書が一冊にまとめられているのが「聖書」です。私たちは普通、自分の使いやすい言語に翻訳された聖書を使います。私の場合は日本語です。ですが聖書の原典は、新約はギリシャ語、旧約はヘブライ語で書かれています。

聖書を深く読もうとする時――例えば教会の礼拝で聖書のお話をするための準備をする時――には、日本語訳の聖書だけでは足りず、原典も参照することになります。聖書に限らないことですが、翻訳した文書というのは必ず翻訳者の解釈が入ります。どの言語においても、ひとつの文章が何通りかの意味に解釈できるということがしばしばあります。
そうした解釈の余地をそのまま残して別の言語に訳すことは、普通はできません。翻訳の際には、どの意味を採用するか翻訳者が判断します。ですから翻訳された聖書だけを読んでいると、どうしても翻訳者の解釈に引きずられてしまいます。それを避けて、聖書に何が書いてあるかを自分で理解するためには、原語で書かれたもともとの文書を読む必要があるのです。

ですから神学校では、ギリシャ語とヘブライ語を勉強します。ところが、それだけで十分ではありません。ギリシャ語やヘブライ語の聖書にも、実はいくつものバージョンがあるからです。バージョンによって、少しずつ内容が違います。ギリシャ語やヘブライ語が読めたとしても、どのバージョンの聖書を読むか、考えなくてはなりません。

印刷技術が発達するより前の時代には、聖書は他の書物と同じく、手で書き写すことによって受け継がれてきました。あるところに聖書がある。これをもうひとつ作って、他の場所でも読めるようにしたい。そんな時には、聖書に書かれた文章を他の何か(パピルスや羊皮紙、時代が下れば紙)にひと文字ずつ書き写す必要がありました。そしてできあがったものを「写本」と呼びます。

写本を作るために文字を書き写した人を「写字生」と呼びます。写字生はきっと、できる限り注意深く聖書の文字を書き写したことでしょう。それでも人間ですから、時に写し間違いが起こります。ひと文字書き落とすこともあったでしょうし、ある言葉をよく似た別の言葉と見間違えて書いてしまうこともあったでしょう。その時は文章の意味が少し変わってしまうことになります。

さらに、写字生が書き写している元の聖書も、過去に誰かが作った写本です。書いている間に、ちょっと不自然なところや意味の通らないところを見つけたら、「きっと過去の写字生が間違えて写したのだろう」と推測して、自分が写す時に修正したかもしれません。でもそれは、もともと不自然だったり意味が通らない文章だったかもしれないのです。

そんなふうに、写本を作るたびに写し間違えたり、修正したりして、少しずつ元の聖書とは違うものができていきます。Aという写本から書き写したBという写本はAと微妙に違うでしょうし、Bから書き写してできたCという写本はBとは微妙に違うでしょう。また、AからBとB’という2冊の写本ができたとしたら、BとA、B’とAが違うだけでなく、BとB'も違うものになっている可能性があります。こうした違いは、書き写すたびに蓄積されていきます。

そうやって、時代が下るに従って、微妙に異なるたくさんのバージョンの聖書ができていきます(図1)。



図1 微妙な変化とともに生まれる写本



キリスト教で聖書が大切にされるのは、聖書が「神の言葉」であると信じられているからです。もちろん、聖書の文章そのものを書いたのは人間ですが、その人間は「神の啓示」を受けて書いたとされています。

とすると、できるだけ「神の言葉」に迫るために、一番最初に書かれた内容が知りたくなります。「神の啓示」を直接受けた人が最初に書き留めたものが、もっとも正確な「神の言葉」と考えられるからです。

ところが最初に書かれたオリジナルの文書は、どこにも残っていません。現在残っているのは写本だけです。そこで、残っている写本からオリジナルの聖書を推測することが必要になります。現存しているいくつもの写本を比較して、どれがより古く、オリジナルに近いか推理します。

写本のことを勉強しながら、なんだか生物の進化の研究をしているみたいだ、と思いました。生物は、親から子へと遺伝情報がDNAによって受け継がれていきます。親のDNAが複製されたものが子のDNAとなります。複製はとても正確に行われますが、ごくたまに間違いが起こり、その間違いが子に伝わります。子のDNAは、親とはほんのちょっと違ったままのDNAを複製し、複製されたDNAがそのまた子のDNAになります。その時にも、ちょっと間違いが起こっているかもしれません。

DNAの複製は、写本とよく似ています。基本的には正確にもとのDNAと同じものが写し取られて作られますが、まれに写し間違いが起こります。その間違いが生存に影響を与えるような重要なものだと子は死んでしまいますが、そうでなければそのまま受け継がれます。そして通常、子は複数生まれます。DNAの複製は、それぞれの子について別々に行われますから、きょうだい同士で違う間違いを持つことが起こりえます。聖書の写本Aから、BとB'という微妙に異なる複数の写本が作られるのと同じです。さらに、複数生まれた子のそれぞれから、また複数の子が生まれます。それが何代も繰り返されている内に、子孫と祖先のDNAの違いはだんだん大きくなっていきます。そして、同じ祖先を持つ子孫どうしの違いも大きくなっていくのです(図2)。


図2 DNAの複製と変異


これが生物の進化の基礎にあるDNAの変異です。実際には、こうして起こった変異の内、生存に有利なものが生き残り、不利なものは死に絶えてしまいます。それはもしかすると、あまりにひどい間違いが含まれる写本が、後の人によって「この写本は間違いがひどすぎて使えない」と捨てられてしまうのと似ているかもしれません。

とすれば、現存する写本をたどってオリジナルの聖書に書いてあったことを推測することは、今生きている生物や化石を使って、祖先がどんな生き物だったか探ることと似ています。写本の研究と、生物の進化の研究は、同じ方法が使えたりするのではないか。そう思って調べてみると、実際に「系統解析」と呼ばれる共通する手法が使われていました。

(つづく)

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